ミュンヘンのアルテ・ピナコネーク所蔵の『四人の使徒 (Die vier Apostel)』、それはドイツを代表する巨匠、アルブレヒト・デューラー最晩年の傑作である。
日本での知名度はあまり高くないものの、この絵画には揺るがざる芸術的価値とともに、きわめて重要な歴史的価値をも併せもっている。
コスモがこの世でもっとも見たかった絵画、それがこの『四人の使徒』だ!
『四人の使徒』という名前は正しくない!?
「使徒」という語がタイトルに入っていることから、この絵がキリスト教における宗教画であると容易に推測できるかもしれない。
そして宗教画に詳しい人であれば、ここに描かれている4名についても、その風貌とアイテムから、誰が誰であるかを想定できるかもしれない。
(例えば、ペテロは天国の鍵をもっているのですぐわかるだろう。)
ここに描かれているのは左手前からヨハネ、その奥にペテロ、マルコと並び、右手前にパウロとなっている。
初代教皇(法王)でもあるペテロと、パウロ、ヨハネはいずれも初代教会において指導的立場にあったとされ、キリストの弟子たちの中でも特別な存在だった。
そしてマルコは福音書記者(Evangelist)である。『新約聖書』に収められている4つの聖典『福音書(Evangelium)』のうち、『マルコの福音書』を書いたのが彼である。
ちなみに先のヨハネは、残り3つの聖典のうちの1つである『ヨハネの福音書』を描いたとされる。(そのなかの『ヨハネの黙示録』は終末の預言書としての性格をもっており、特に有名!)
いずれも、キリスト教において重要な人物であることには間違いない。
ところで!この絵画は『四人の使徒』と呼ばれているが、デューラー自身はこの絵に題名をつけていない。
つまり、この呼び名は後世に付けられたわけだ。
そして実は、後世に付けられたこの『四人の使徒』という名称は、正確に言うと正しくない。
それというのも、福音記者マルコは「使徒」ではないからである。
もっと言えば、パウロも場合によっては使徒に含まれない可能性があるらしい(!)
というのも、狭義の「使徒」はキリストの「十二使徒」を指すらしく、ここにパウロは含まれていないからだ。
なぜなら、パウロはキリストの死後に信仰の道へ入ったため、キリストの直弟子ではないから。
(有名な「最後の晩餐」にも当然ながら彼は参加していないんだ。)
そんなわけで、この狭義の「使徒」の場合、パウロさえも「使徒」に含まれない可能性がある。
へぇーーー。
とはいえ、その偉大な功績から、 歴史的な「正統派」キリスト教会はパウロを「使徒」と認めているそうなので、そこはたいした問題ではないかもしれない。
いずれにしても使徒ではない人が含まれている時点で『四人の使徒』ではないわけであり、この絵はむしろ『四人の聖人』とでも呼ぶべきなのかも。
まあ、既にずいぶん昔からこの『四人の使徒(Die vier Apostel)』という名で定着してしまっているので、この無鉄砲日記でも『四人の使徒』のままにしておきます!
「四人」である理由
この絵は、204×74cmという、等身大以上のなかなかの大きさの絵画だ。それが2翼に分かれており、それぞれに2名の聖人が描かれている。
さて、手前の2人、ヨハネとパウロは全身がしっかりと描かれているが、後の2人はそっと顔をのぞかせる程度。
この2枚のパネルに無理に2名ずつ入れる必要があったのか?と思えなくもない。。。
しかし、この絵には「4人」描かれる必要があった。それは、この絵が人間の四気質を表現しているからだ。
「四気質?なんだそれ?」
と思う方もいるだろうから、ここで簡単に説明を。
「四気質論」、その元となるとは人間のもつ4つの気質のことで、古くは古代インドやギリシアで唱えられた理論だった。
当時、人体の健康は体液が関係すると考えられていた。
どこかを悪くするということは、特定のある部分に不調が起きているのではなく、4つの体液のバランスが崩れることでその兆しが不調として身体のどこかに現れるというのだ。
身体の部分部分を分けて考えるのではなく、身体全体を1つとして考えるものであり、古代の考え方ながら、むしろ現代の医学にも通じるような発想ではないだろうか。
さて、その体液というのが血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つで、これが通常安定したバランスをとっている。
しかし、その安定する体液のバランス自体、個人により差異が出る。
その差異こそが人間にある特定の気質、つまるところ気性や性格の違いを与えるというのである。
4気質のうち、血液の量が多いのが多血質(Sanguine)である。血が多いため血色が良く、筋肉質でたくましい。脈は規則的で、4タイプの中で最も健康的な若々しさがある。人柄は機嫌が良く社交的。移り気で図々しいところもあるが、気前もよい。
粘液が多いのが粘液質(Phlegmatic)。精神的に鈍く、優柔不断で臆病なところがあるが、公正かつ穏やかな人柄で人を騙したりしない。背は高くなく太っており、皮膚には血の気がない。脈は遅くて弱い。
黄胆汁が多いと黄胆汁質、あるいは単に胆汁質(Choleric)と呼ばれ、荒々しい性格の熱血漢で短気、行動的であり、野心も強い。気前がいいが、意地悪で気難しい面がある。黄色味がかった皮膚の色で、脈が早く、心臓に負担がかかりやすい。
最後に、黒胆汁が多いのが黒胆汁質、あるいは憂鬱質(Melancholic)と呼ばれる。寡黙で頑固、孤独癖があり、社交を好まない。皮膚は土気色で、乾燥していて冷たく、だいたい痩せている。脈は遅い。
この気質はさらに、強欲で倹約家、利己的なうえ、神経質で自殺傾向があるともされた。注意深く明晰、勤勉で、一人で思索に耽りがちで、狂気や精神錯乱に陥りやすいとされた。4つの気質の中でこの「憂鬱」質は圧倒的に悪いイメージが多かった。
しかし、デューラーが四気質の中で一番重要視したのは何を隠そう、この憂鬱質だった。
デューラーの三大銅版画のひとつである「メランコリアⅠ(Melencolia I)」は、この四気質のうちの憂鬱質をテーマにしたもので、憂鬱に沈む天使の周りを幾何学的、数学的なモチーフを主として、寓意的に取り囲む。
未だになぞ多き作品ではあるが、この寓意をひとつひとつ読み解いていくと、少なくともこの天使は憂鬱質の象徴であり、そしてそれは今まさに何かを生み出そうと、コンパスを手に思索しているということがわかる。
四気質論がごく一般的であった当時の人々にとってこの作品が「憂鬱質」を表現していることは、左上方の虹の下を飛ぶ蝙蝠の翼にあるタイトルを見ずとも、容易に理解できた。
しかし、本来であれば、憂鬱質は四気質の中でもっともネガティブな気質だ。
それをデューラーは若い女性の天使に象徴させた。憂鬱質を、何かを創造しうる特別な、崇高ものとして描いたのだ。
それは、芸術家であり、数学者であり、創造の天才である憂鬱質のデューラーその人の内なる自画像ともいえる。
デューラーはこうして憂鬱質に特別な意味を与え、また、この四気質というものを好んで描いたのだった。
だからこそ、最晩年にデューラーがこのキリスト教の巨人たちを描く際に、あえて4名を描き、それぞれに1つの気質を特徴的に与えようと思ったことは、ごく自然なことだったに違いない。
「四人」の使徒と「四気質」
では、この『四人の使徒』のうち、誰にどの気質の特徴が与えられているだろうか。
先ほどのそれぞれの気質の外的特徴と、4人の男たちの外見を見比べていくと、見分けることはそんなに難しくはないはずだ。
まず、左端のヨハネ。彼はこの4人のなかでも比較的若く描かれている。顔色がよく、健康的な印象ではないだろうか。まあ、これが多血質なのは間違いない。
その背後にいるのがペテロ、その隣にマルコがいるが、立ち位置もあるにせよ2人とも背は低め。
ペトロはこのなかで一番年老いて見え、ふくよかで穏やかな印象だから粘液質だろう。
マルコはその隣で右側を鋭い眼光で見つめている。少し感覚的な話になるが、 この4人の中で一番熱血漢な印象を受けないだろうか。彼はまさに胆汁質を表している。
そして右端のパウロ。彼は土気色の皮膚で、痩せており、こちらを見つめながらも硬く口を閉ざす様子から寡黙な印象を受ける。彼は憂鬱質を体現しているのである。
さて、この4名のそれぞれの気質が明らかになったところで、面白い事実が見えてくる。
一般的にもっともポジティブに捉えられている「多血質」の特徴を与えられたヨハネは、前方に堂々と立っている。
彼の衣服は赤と黄(金)と緑という非常に鮮やかな色であり、布の質感は柔らかだ。
一方で、一般にもっともネガティブに捉えられている、しかしデューラーが天才の気質として特別視した「憂鬱質」の特徴をもつパウロはそれとは真逆だ。
同じように堂々と前方に立ちながら、彼の衣は白、あるいは象牙色で、布の質感は硬質である。
この違いは、デューラーがあえてそのように描いたとしか考えられない。これは、多血質と憂鬱質という真逆の気質をその容姿や体型のみならず、装いからも明確に対照にさせたかったからだろう。
そしてもう1つ、いや、もっとも興味深いのは、なぜそれぞれの聖人がその気質を与えられたかだろう。
キリストの一番弟子といえば、カトリックの世界ではペトロだ。初代教皇も彼だ。しかしここで彼は、ヨハネの背後にそっと佇んでいる。
その代わりに、「十二使徒」にも含まれないパウロが堂々と前に立ち、特別な「憂鬱質」を与えられている。
それはなぜなのか。
そこには、デューラーがこの絵を描いた理由と、この時代の重大な歴史的背景がかかわっているのだ。
宗教改革とデューラー
デューラーがこの『四人の使徒』を完成させたのは、1526年。この頃ドイツ全土、ひいてはヨーロッパ全土を揺るがす大きな歴史的事件が起こっていた。
それは、1517年に端を発する宗教改革である。
1517年、修道士のマルティン・ルター(Martin Luther)がキリスト教界に投じた「一石」は、あまりにも大きな衝撃を与えることになった。
当時のカトリック教会は、権威主義・金儲け主義に陥っていた。その際たるものが贖宥状(免罪符とも)である。
この贖宥状というのは、カトリック教会の名において罪の軽減が認められるもので、お金で購入できた。
当時の教皇レオ10世はメディチ家の出身で、彼のもとでイタリア・ルネサンスは最盛期を迎えていた。サン・ピエトロ大聖堂の建築(再建)費用が必要だった。
その建築費用を賄おうと、当時のカトリック教会は金銭と引き換えにこの贖宥状を発行していったわけだ。
お金を払えば罪が赦される、少なくとも軽減される・・・これは、お金持ちにとっては嬉しい話だったが、貧しい人々にとっては納得がいかない。
それだけでなく、当時のカトリックの聖職者たちは本来聖職者としてあってはならない女性問題や金銭問題などを頻繁に起こしていたので、ヨーロッパ各地で不満が募っていた。
そんななか、一修道士であったルターは、現状に対する問題提起として、95か条の論題を世に出すことになった。
とはいえルター自身は、「贖宥状」のように聖書に書かれていないことは勝手にすべきでないよね、ということをカトリック教会の一員として共有したかっただけだったらしい。
しかしタイミングが良すぎたのか悪すぎたのか、ルターはキリスト教界の改革の旗手として祭り上げられてしまった。
その結果、とりわけドイツでは、各領主、各都市ごとに、自分たちがカトリック教会とルター派のどちらにつくかという大きな決断を迫られることになったのだ。
このあたりの内容は到底ここで書ききれるものではないので、機会があればいずれ触れるとして、そんなわけでこの時代のドイツは、まさに宗教改革の渦中にあった。
さて、我らがデューラーは、このルターに心酔していた。デューラーは彼のことを
「私を大きな不安から私を助け出したキリスト教徒」
と呼び、ルターが暗殺されたという報せ(これは誤報だった)がきた際などは、その衝撃と悲しみに染まった胸の内を書き記したものが彼の日記のなかに残っている。
さて、この『四人の使徒』は誰かからの注文を受けたものではなく、自らの意思で描き上げ、そして完成したものをニュルンベルク市参事会に寄贈している。
市参事会というのは当時のドイツの都市において市政を司る組織であり、帝国都市として皇帝に直属していたニュルンベルクにとっての最高権力機関であった。
その市参事会にデューラーはこの大作をプレゼントしたのである。
それは、ニュルンベルク市がルター派としての立場を鮮明にし、宗教改革の導入を正式に決定した1525年の翌年にあたる。
この符合は決して偶然ではなく、そこに彼から市参事会への、あるいは世の人々へのメッセージが込められているに違いない。
そのメッセージを読み解くための鍵は大きく2つある。
1つ目が、先ほどの4人の描き方である。先にも述べたように、カトリックでとりわけ重要なキリストの弟子はペトロだ。しかし、この絵画において、彼は一歩下がり、前に堂々と立っているのはヨハネとパウロの2名。
実は、ヨハネはルターが最も愛した聖人とされています。ルターが残した書物のなかにはヨハネについて最も多く言及されているとか。
ちなみにヨハネが手にもっている聖書だが、ルターがドイツ語に翻訳したものを使っていることは注目に値する。
そしてなにより重要なのは、憂鬱質として描かれたパウロである。実はルターにとってパウロは特別な聖人であった。
なぜなら、彼の『ローマの信徒への手紙』に出てくる「神の義」こそが、はじめ彼を深く苦悩させ、そしてのちにその解釈の転換によって、大きな心の慰めへと変化し、以後ずっと彼の信仰の核となったからである。
また、当時ルターの側に立った者たち、つまり今でいうところのプロテスタントは、実はパウロ派と呼ばれていたそうだ。
それは、彼らが伝統的に弟子の中でもパウロを重視したからである。キリストの直弟子でないにもかかわらず、キリストの教えに忠実に生きた姿に、自分たちのあるべき姿を重ねたのかもしれない。
つまりデューラーは、ルターの愛した聖人と、ルターの信仰の核となった聖人を前に出すことで、彼の「ルター派」としての立場を明確に表明しているのである。
それゆえ、この『四人の使徒』はデューラーの絵画による「信仰告白」であるといわれているのだ。
宗教改革と芸術家
さて、この4人の聖人たちの足元には、デューラーがニュルンベルクの能書家ノイデルファーに書かせた銘文がある。こちらもルターの翻訳した聖書が使われている。
書かれている内容は長いので割愛するが、大筋としては、世の中には偽預言者などもたくさんいて危険だから、そういう人の言葉に惑わされてはいけないよ、的な内容だ。
この銘文を市参事会に寄贈する絵にいれたことにもやはりそれなりの理由があるはずだ。
有力なのは、当時、改革派の人たちの中でも急進的な人たちが聖像破壊などを始めていて、デューラーはそれが広がることを危惧したからではないかという説だ。
聖像とはつまり、聖母子像や宗教画だ。そしてこれを作るのは他でもない、デューラーたち芸術家なのだ。
聖像を否定されれば新たな聖像の依頼は来なくなり、それは仕事が大きく失われることになる。また、聖像を破壊されるということは、自分たちが心血を注いだ大切な作品たちを無残に打ち壊されるということ。
この聖像破壊が広がるか否かは、芸術家にとっての死活問題だ。
幸いデューラーの心酔するルターは、この聖像破壊を否定している。とはいえ、扇動者がいれば民衆は急進に走りやすく、いつニュルンベルクやその周辺にもその動きが現れるかわからない。
だからこそデューラーは、急進的な扇動者たちに民衆が惑わされないように、そしてそれを市参事会が許さないように、あえてこのタイミングで(ルター派としての立場も明確に表明した)宗教画を描いたといえるだろう。
ルネサンスの最盛期を築いた教皇レオ10世の贖宥状は、ドイツの宗教改革の引き金となり、聖像破壊にまで繋がって、多くの歴史的な芸術作品が破壊されたというのは皮肉な話だ。。。
デューラーはルネサンスの精神をもった芸術家でありながら、宗教改革においてはルター派として、また、ニュルンベルクの一市民として、自らの立場を守ったのだ。
『四人の使徒』はルネサンスにおける宗教画として、最高傑作のひとつであるとされている。
同時に、宗教改革の時代を生きた1人の人間の信仰告白でもある。
そしてまた、ニュルンベルクの一市民が自分の仕事と作品を守ろうとたくましく生きた証なのだ。
中世末期の激動の時代、ルネサンスと宗教改革の記念碑的な作品、それがこの『四人の使徒』なのである。
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