ニュルンベルクでの生活や魅力をお伝えしていく前に、ニュルンベルクがいったいどういう街なのか、その歴史と役割を簡単にまとめました!
ヨーロッパ交通の要所
ニュルンベルク(Nürnberg)はドイツ最大の州であるバイエルン州に属しており、人口50万人を超える、ミュンヘンに次ぐバイエルン州第2の都市です。
ドイツのやや南部に位置しますが、この地図を見てもわかるように、実はヨーロッパのほぼ中心という好立地!そのため、古くから交通の要所として栄えました。
ドイツで最初の鉄道がこの街に通ったのも頷けます。それを記念して、ニュルンベルクには鉄道博物館(DB Museum)もあります。
また、ニュルンベルク中央駅(Nürnberg Hauptbahnhof)は、バイエルン州北部最大の鉄道駅です。
「皇帝の街」としての繁栄
ニュルンベルクの街のシンボル、それはカイザーブルク(Kaiserburg)です。この街を眼下に一望できる小高い丘の上に、力強く厳然と聳え立っています。
では、このカイザーブルクの主は誰か。答えはその名前にあります。ご存知の方も多いと思いますが、Kaiserはすなわち皇帝。つまり、このお城は皇帝のお城だったのです。
ニュルンベルクの歴史は、1039年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世(Heinrich III.)によるカイザーブルク築城に始まります。
ヨーロッパのほぼ中心という素晴らしい立地は、常に国中を巡回してまわらなければならなかった歴代神聖ローマ帝国皇帝にとって、非常に都合がよかったに違いありません。
ドイツ中世都市は通常、地方領主や司教の統制下におかれていました。そのため都市に自治権はありませんでした。
しかし、カイザーブルクの城下に発展していくことになったニュルンベルクは皇帝直属の都市、つまり一定範囲における自治権を行使することが認められた「帝国都市」として、大いに繁栄することになります。
1356年には皇帝カール4世(Karl IV.)が、かの有名な「金印勅書」を公布し、即位後第1回目の帝国議会をニュルンベルクで開催することを定めました。
1423年には皇帝ジギスムント(Sigismund)によって「帝国宝物(レガリア)」がニュルンベルクで保管されることに。
「帝国宝物(レガリア)」は、日本でいうところの「三種の神器」にあたるものですから、これはニュルンベルクにとって相当な名誉です。
皇帝の威光と、交通の要所としての発展により、ニュルンベルクは中世のドイツにおいて有数の大都市となったのです。
神聖ローマ帝国は首都を持ちませんでしたが、歴代皇帝がとりわけこの街を愛したことから、ニュルンベルクが事実上の首都と考えられていたほど。
そんなニュルンベルクですが、1525年に宗教改革の導入が市参事会によって決定されたことを機に皇帝との関係が疎遠になり、「皇帝の街」としての権威は次第に失われていきました。
負の歴史との対峙
「皇帝の街」としての権威こそ薄れましたが、ニュルンベルクは産業革命以降も工業都市としてそれなりに栄えていました。
しかし現代史は、ニュルンベルクの輝かしい歴史のなかに、深い影を落とします。
「ニュルンベルク裁判」とは、第2次世界大戦におけるドイツの戦争犯罪を裁いた国際裁判ですが、なぜこの裁判はこの街で開かれたのか。
それは皮肉にも、ニュルンベルクが「皇帝の都市」として栄えた歴史が関係します。
かの悪名高きナチスは、ナチ党大会を決まってこのニュルンベルクで開催していました。
それは党員がドイツ中から集まるのに立地的に都合がよかったということが1つ。
しかしもう1つは、神聖ローマ帝国の中心地の1つであり、また、「金印勅書」以来、1543年まで帝国議会の開催される街であったという伝統を、ヒトラーが自身と自党の正統化のために利用しようとしたからです。
「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」として制定された、ユダヤ人迫害のための卑劣極まる「ニュルンベルク法」もその名の通り、この街で制定されたものです。
その結果、ニュルンベルクは「ナチスの象徴」として世界から認知され、第2次大戦時にとりわけ激しい攻撃を受け、街は全体の9割が破壊されるという壊滅的な被害を受けました。
「皇帝の街」としてのかつての栄光ゆえに、残酷な、悲劇的な運命を背負うことになったニュルンベルク。
このことはこの街に住み、この街を愛する人々にとって、あまりに辛く、悲しい歴史的事実です。
しかしこれは決して目を背けてはならないことであり、もう二度と同じ歴史を繰り返さないために、その負の歴史と真剣に向き合う必要があります。
新たな役割
戦後、ニュルンベルクは国家社会主義独裁体制下で課されたその役割から、人権に対して歴史的責任を負っているとして、自らに平和と人権の保護への積極的貢献が義務付けられていることを自覚しています。
その達成のために、ニュルンベルクには帝国党大会会場跡文書センター、ドク・ツェントゥルム(Doku-Zentrum)の設立や人権教育の徹底を行っています。
その活動は対外的にも認められ、現在は「平和と人権の都市」として、新しい重要な役割を担っているのです。
栄光の歴史と負の歴史、その両方を背負ったニュルンベルク。
今あるこの美しい景色も、一度はほとんどすべてが戦争という愚行によって無残にも失われたものでした。
しかし、この街の人々は、ニュルンベルクを新しい街として作り変えることはせず、戦前の街の姿を完全に取り戻そうと努力し、今は以前の美しい街並みが蘇っています。
それは、この街の背負った栄光と闇、どちらの歴史もなかったことにしてしまうのではなく、あえて両方を直視しながら、再びこの街と歩んでいこうという市民の決意表明にほかなりません。
今、この街には多くの人種の異なる人々同士が、自身の文化を大切にしながら共生しています。
この美しい街並みも、そこに住む人々も、すべて当たり前のことではなく、あらゆる歴史を越えて、今に繋がっている。
この事実を実感しながら歩くニュルンベルクの街並は、いつも以上に美しく輝いてみえます。