Mauerfall~ベルリンの壁崩壊~

1989年11月9日。そう、今から約30年前のこの日。

1961年から1989年までの28年間にわたって東西のドイツを二分にしてきた「ベルリンの壁(Berliner Mauer)」は、

ある男の「勘違い」によって―――崩壊した。

ご存知でしたか?

今回は、東西冷戦の象徴であるベルリンの壁とその崩壊について。

ベルリンの壁と無鉄砲姉妹

はじめに、少しだけ余談を。

ベルリンの壁崩壊の記念日である1989年11月9日。

実はこの1989年というのは、コスモが生まれた年であり、

11月9日は、テンの生まれた日なのです。

そんなわけで、無鉄砲姉妹にとってこの日は、ドイツと自分たちとの不思議な縁を感じる日でもあります。

今日はそんな特別な日ですが、来年はさらに特別な年になります。

そう、来年2019年は、ベルリンの壁崩壊から30周年という節目なのです。

もちろん、私たち姉妹には「ベルリンの壁」があったころの記憶はまったくありません。

当時、コスモは生まれて間もないし、テンにいたってはこの世に存在すらしていない・・・。

それでも、あの印象的な壁の壊されるシーン、壁によじ登る人々の姿は、歴史的名場面としてテレビなどで幾度となく紹介され、

それは私たちに深い印象を与えました。

いつかドイツに行ったら、必ずベルリンの壁のあった場所に行きたい。

幼心にそう思ったのを覚えています。

そして今年の4月。私たちはようやくドイツの首都ベルリンに立ちました。その日は、驚くほどの大晴天。

ベルリン到着後、迷うことなく直行したのは、ドイツ・ベルリンのシンボルであるブランデンブルク門(Brandenburger Tor)。

ドイツ・ベルリンのシンボル、ブランデンブルク門(Brandenburger Tor)

その圧倒的な存在感に、思わず言葉を失いました。

その建造物としての美しさはもちろんのこと、歴史的重みがそこに絶対的重厚感を与えていました。

脳裏に浮かぶ、1989年11月9日、ブランデンブルク門の前の「ベルリンの壁」によじ登る人々を映した歴史的一枚。

そのイメージが、眼前のブランデンブルク門と重なり、想像以上に感銘を受けた無鉄砲姉妹。

その後、イーストサイドギャラリー(East Side Gallery)へ。

長く続く壁に描かれた、多種多様なアート。

渾身の力作!というような作品から本当に子どもの落書きのようなものまでが並ぶ、美術館の回廊のようです。

しかしアートとしてではなく、ただの壁としてこれを見ると分厚く、威圧的な壁です。

この壁が、これがもっとはるか遠くまで続いていた。

それどころか、この壁が大きなひとつの地域をぐるりと取り囲んでいたのだ―――

そう考えると、今のこののどかな景色が、まったく違って見えるようでした。

ベルリンの壁がなぜできたのか。

そもそもベルリンの壁は、どうして作られたのか。

第2次世界大戦のあと、ドイツは東と西で国を分断されました。

それは、1945年5月8日にドイツが無条件降伏したあと、同年7月に開かれたベルリン郊外のポツダムでの会談での決定によるものでした。

そのポツダム協定で、ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の戦勝4カ国によって分割占領されることになったのです。

このとき首都ベルリンは、地理的にはドイツの東側に属しましたが、この都市だけは戦勝4カ国によってさらに分割されることに。

こうして、西ベルリンはアメリカ・イギリス・フランスの、東ベルリンはソ連の管理地区として、実質的に2分されたのです。

以降、西ドイツと東ドイツはあくまで別の国として東西間の国境が閉鎖されたのですが、当初、首都ベルリンでは東西の往来が自由でした。

西側は資本主義国家として大きく発展し、経済は潤い、豊かな物資と自由な雰囲気になっていきました。また、自由な旅行も許されておりました。

かたや東側は共産主義国家として、限られた物資を分け合いながら、旅行も含め、さまざまな自由が制限されていました。

東ドイツのなかの西ベルリンという存在は、東西ドイツの明らかな違いを際立たせる存在でした。

ベルリン市民は、同じ町の東側と西側で、全く違うドイツの姿を見ることになったわけです。

東側の多くの人々が、豊かな「西側」に行きたいと望んだのは自然なことでした。

こうして、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が、次第に東ドイツに深刻な影響を及ぼすことになります。

その結果、1961年8月13日、東ドイツは突然、東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離したのち、コンクリートの壁を作りました。

これが「ベルリンの壁」です。

こうして東側の世界にぽつんと存在した西側の世界は、コンクリートの長く巨大な壁によって覆い隠されることになったのです。

「ベルリンの壁」の存在

ベルリンの壁は、ある日突然できました。

それゆえに、偶然その日に東側にいただけ、あるいは西側にいただけの人たちも含め、ただ自分の家に帰るというだけのことも許されませんでした。

家族、恋人、友人・・・ただそのとき、偶然そちら側にいただけでまさかこんなことになろうとは、当時、誰が想像できたでしょう。

このベルリンの壁は、東西冷戦の象徴と言われています。

アメリカとソ連が静かに対立するその国際情勢が、ひとつの都市の中に具現化されていると。

「象徴」―――しかし、実際にはそれだけではすみません。

この壁が存在することで、あまりに多くの人間の人生が狂わされました。

そして少なくとも136人が、「ベルリンの壁」による犠牲者数だそうです。

その大半は16歳から30歳の若者であり、ただ愛する人に会いたい、自分の家に帰りたいがために命を懸けた人々でした。

最後の犠牲者となったとされる少年は、ベルリンの壁崩壊のわずか9か月前に壁を越えようとして殺されました。

あと9か月だけ待っていれば―――と思わずにはいられません。

しかしそれは、もはや「ベルリンの壁」のない今だから言えること。

実際、28年という長い間、その壁は確かにあったのです。

当時の青年たちにとって、それは生まれた時から存在した、あまりにも大きな「壁」です。

これからもずっと、このままこの「壁」はここにあるのではないか。

彼らがそう考えたのは当然です。

だからこそ、彼らは行動せざるを得なかった。ただ自由を得るために、彼らは命を懸けたのです。

「勘違い」により、ベルリンの壁崩壊!

1980年代後半になり、共産主義が世界的に弱体化してくるにつれて、ドイツ東西の国境やベルリンの壁の存在意義は薄れていきます。

東ドイツの現状に対する人々の反発は強まるばかりで、各地ではデモが相次ぎました。

そこで東側はその対応策として、東ドイツにおける旅行許可書、つまりビザ発行の大幅な規制緩和を行うことにしました。

ところが―――

ここで歴史は、驚くべき展開をみせることになります。

東ドイツ政権の広報担当者ギュンター・シャボフスキーは、十分にこの発表内容を決定した会議に参加することができないまま、記者会見に臨みました。

そのため、与えられた情報を広報担当として発表する際に、内容を十分に理解していませんでした。

急ぎ書類に目を通した彼は、発表すべき内容をまさかの「勘違い」!

彼は、そもそも報道解禁前であった「ビザ発行の規制緩和」を報道陣に伝えてしまっただけでなく、

東側が東ドイツ市民の「事実上の旅行自由化」を認めた、と受け取ることのできる表現をしてしまいます!

そして記者からの「いつから?」という問いかけに対し、

「私が知る限りでは、今でしょう」と!!!!!

これを聞いた人々は、たぶんここで発表する内容を決定した人たちも含めて、一人残らず驚愕したに違いありません。

「政府が西へ行くことを自由化したらしい!」

この情報は、瞬く間に東ドイツ中に広がり、その真偽を確かめようという人たちが、次々と境界検問所に集まってきました。

そしてそれはやがて膨大な数となりました。

混乱した東の警備兵たちは本部に連絡を取りましたが、そちらも混乱状態で、はっきりとした指示がでません。

集まったその膨大な数の人々は「ゲートを開けろ!」と声をあげ、警備員たちはこの事態に危機感を覚え、少しずつですが、人々を中に入れていきました。

そうなると、もう止まりません。すぐにそのコントロールは失われ、人々は流れ込み、すべてのゲートが開け放たれました。

その夜のうちに西ベルリンへ出国した東ベルリン市民は数万人に上ります。

そして、もはや無意味になった「ベルリンの壁」の上に人々はよじ登り、双方からハンマーで打ち壊していきました。

こうして、東西冷戦の象徴「ベルリンの壁」は崩壊したのです。

この広報担当シャボフスキーの勘違いは、「歴史上最も素晴らしい勘違い」といわれています。

訪れた自由。そして「平和の象徴」へ。

「ベルリンの壁崩壊」は、まさに歴史の動いた瞬間でした。

この瞬間を、どれほど多くの人が待ち望んでいたことか。

東ベルリンの住人も西ベルリンの住人も双方が歓喜に沸き、通りは人で溢れ、やっと訪れた自由を誰もが心から祝いました。

東西冷戦の象徴であった「ベルリンの壁崩壊」の翌月には東西冷戦は終結が宣言され、翌年1990年10月3日にドイツは平和的に再統一を果たしました。

こうして、一つの時代が終わり、そして新しい時代が幕を開けたのです。

私たちにとっては当たり前な、1つのドイツ。

それでも、ほんの30年前には、それは当たり前ではなかった。

ベルリンに立ち、ブランデンブルク門の前に立ち、イーストサイドギャラリーを歩き、そしてそこを自由に行き来する。

すると、歴史の重みと、自由と平和の大切さをひしひしと実感させられます。

そしてもう2度と、同じような悲劇を繰り返してはならないという思いを、今は「平和の象徴」となったベルリンの町で強く胸に刻み込むのでした。